2017.10.25

本当に信じられる友達は三人しかいない、わたしはこの先人生において何を得られるのだろうか、はたまたこの二十と数年あまりで何を得られたのだろうか
まずはじめにわたしがこの人生で得られて一番良かったものはわたしの家族だ、思春期の頃は「どうして家は母子家庭なのか?」「どうしてママとパパは仲が悪いのだろうか?」「どうしてママは弟を私よりも心配するのだろうか?」「どうして誕生日もクリスマスも年末年始もママとパパと一緒に過ごせないのだろうか?」などと家族に対するコンプレックスが沢山あった。母子家庭なので、もちろん母親は仕事ばかりで殆ど家にいない。両親よりも祖父母と過ごした時間の方が長いのではないか、とも思う。いや、長かった。それでも寂しいと感じた事は一度も無かった。その分、祖父母が愛情を注いでくれた。両親からの愛情を肌で感じる事が出来なくても寂しささえは埋められたのだ。しかし、わたしが欲しかったものはもちろん両親からの目に見える愛情だ。大人になった今でも、目に見えて肌で感じることのできる愛情しか信じることができない。寂しい大人になってしまった。だけど大人になった今、両親からの愛情に気が付くこともできた。ああ、わたしは生まれてきて良かったんだなあ、と。ちゃんと気が付かせてくれた両親。女手一つでわたしと弟を育ててくれたママ。わたしは「お母さん」だなんて一生呼べない。恥ずかしいし、あの人には似合わない。死ぬまで一生女として生きていくんだろうな、と思う唯一の人。自分でも「母親らしいことしてあげられなかった、」なんてこぼしていた。そんな事ないけどね。わたしは私立高校に通わせてもらっていた、学費をみたらきっと公立に行って大学に通わせるのと同じくらいお金がかかるはずだ。(母子家庭だったからそんなことも無いかもしれないけれど)きっと、わたしにはできない。わたしの知らないところで沢山苦労して、努力してきてくれた。わたしには到底かなわない人だな、と思う。ママはわたしが唯一尊敬しているひと。そんなママも最近再婚した。もう何年もお付き合いしているパティシエの優しいひと。毎年わたしに誕生日ケーキを作ってくれる。(作らせている)是非ともママには幸せになってほしいし、旦那さんには幸せにしてあげてほしい。(旦那さん、初婚なのにママがいれば子供はいらないって言っているらしくてマジやばいってなった)
パパ。わたしのことが大好きなパパ。メールアドレスにわたしの名前だけを入れているのを知って、弟に「ざまあみろ」って思ったのを覚えている。今では申し訳ないけれど。パパを思うと心配でしかない。パパはわたしが小学生の頃に一度再婚している。小学生ながらにぶちギレた事を鮮明に覚えている。幼いながらも、わたしにママは二人もいらないし、ママ以外にわたしのママにはならせないって思っていた。弟とも悪口を言った。そいつがまた悪女で、親戚一同大バッシング。絵に書いたようなクソ女で、パパや親戚の権力のあるひとにはいい顔してわたし達や従兄弟達には感じも悪いし口も悪い。数ヶ月で離婚した。パパは大馬鹿者だ。今でも再婚をしていないし、彼女がいるのかも知らない。流石に老後が心配なのでどうにかして欲しいけれど、今のところ無理に近い。心配だ。そんなパパ、今の時代はパパもスマートフォン。LINEももちろん使っている、LINEのホーム画像はわたしの職場の外装だ。どんだけわたしのことが大好きなんだ。
弟も昔に比べたらいい子になって、今では好きだけど特にエピソードがないので割愛。かわいそう。
何故かわたしはおじいちゃんにもおばあちゃん(わたしの言っている祖父母、実は曽祖父と曾祖母)にも親戚一同の中で一番よく可愛がられている。一緒にいた時間が長いからだろうか?そんなおじいちゃんとおばあちゃんに可愛がられに可愛がられた為こんな性格になってしまったような気もしているけれど、おじいちゃんとおばあちゃんに失礼なので無関係ということにしておく。他にも大切な家族はいるけれど、これ以上はしんどいのでやめておく。


わたしはこんな家族よりも、もっと大切にできる人がちゃんとできるだろうか?家族よりも人を愛し、その人と家族になれるだろうか?今のわたしには到底無理だ。どんなに人を好きになろうが、愛そうが、どうしても信じることができないのだ。どうしてこうなってしまったんだろう?皆んなもそうなのだろうか?今、こうして好きな人と同じ家に暮らしていても、全てを信じ、愛することができない。それはきっと、自分を一番信じて自分を一番愛しているからなんだろうけれど、恋人にしてみたら失礼な話だ。彼もどう思っているか分からないし、わたしと同じ気持ちかもしれない、そう考えると罪悪感が少し消える。良くない。良くない、と考えて「もっと信じよう」と思った数分後にはそんな事は忘れている。きっと、わたしは死ぬまで、他人を信じることができないのだ。それは昔に付き合っていた大好きで、信頼していた恋人に「俺たちは結局は赤の他人なんだから」と言われたのが原因なのだろうか?それは大昔に付き合っていた好きでもない、信じてもいない恋人にわたしの寝ている横でわたしの友達の胸を触ったあの夜が原因なのだろうか?
友達にしてもそうだ。誰を信じたらいい?誰が友達と呼べるだろうか。わたしにとって都合のいいことだけを教えてくれる人なのか?わたしにとって都合の悪いことも教えてくれる人なのか?わたしのことを考えて都合の悪いことはきっちり隠してくれる人なのか?わたしが好きならば、わたしが信じられるのならば、そのどの人達をも受け入れるだろう。わたしは人生において沢山の人に出会った。この先も関係を持つであろう人もいれば、この先思い出すことも無い人もいる。わたしを好きでいてくれる人もいれば、嫌いな人もいるし、傷付けてしまう人もいるし、傷つけてくる人もいる。わたしは馬鹿だから、信じるとか信じないとか抜きにしてわたしが好きであればどんな人でも好きでいるのだろうけど。この先あと数十年も生きて、あと何度同じことを繰り返したら、こんな事を終わりにできるのだろうか。大切な人以外、皆んなどうでもよくなればいいのに。人間はどうもこんな事に縛られて生きるしかないのだろう。いたら鬱陶しいのに、いなかったら寂しいなんて、贅沢な話だ。もう、うんざりしている。

文字にしてみたら、ここ数ヶ月胸につっかえていた物が胃に落ちていった気がした。ここ数ヶ月、落ち着きがなかった。ここ数ヶ月、大人げなかった。ここ数ヶ月、泣きすぎた。ここ数ヶ月、弱くなりすぎた。自分じゃ自分の弱さに気が付けないわたしは、「ああ、もうダメだ」と口に出すもっと手前で立ち止まらないといけない。逃げなきゃいけない。ギリギリまで気が付かずに近づいてしまうと、取り返しのつかないことになってしまう。昔、横浜中華街のインチキ占い師に「あなたは見切りをつけるのが早いわよ」って言われたけれど、見切りをつけるのが早いんじゃなくて、遅いから後悔せずに切り捨ててしまうのだろうね。

強くならなくては。自分と好きな人を守るために、ちゃんと、自分を愛さなくては。でも久しぶりに恋人以外のことで泣いたら、少し心がじょうぶになった気がした。